こんなサイトを運営しておいてなんなんだけど、そもそも「あなたの趣味は、何ですか?」と訊かれると、言葉に詰まる自分がいる。
最初に結論だけ書いておくと、趣味がないという悩みが解決された先には、別の悩みが待ってるから、悩みがあるという状態は解決されないよ。ってこと。
ちなみに、この記事は結構長いから、最後まで読み切れたら、少なくとも文章読むのは結構好きなんじゃないかしら。
目次
趣味とは何かという問い
「趣味は何か」という質問は、相手の身長を訊くのとはまったく次元の違う質問だと思う。
だって、「趣味といったら、削った鉛筆のカスを鼻から吸うことかな。トンボのHBが一番気持ちよくなれる」とか「使い終わったギターの弦をしゃぶることだね。オーガスチンの6弦が一番シビれるからおすすめ」とか、なかなか言えないじゃん。
最近、本人にギターは趣味かって訊いてみた。案の定、「趣味では、ないかな」って答えが返ってみたよね。
他人よりも努力して、結果も出して、それでも仕事でも趣味でもないものってのが、この世には存在する。結果を出したからこそ、わかることもある。
苦節の上に挫折したわけでもないし。ギターが嫌いになったわけでもないし。むしろ進む前に気がついたんだから、笑い話にすべき案件。こういう話って、ちょっと好物なんだよね。
彼のせいでコンクール落ちた人からしたら、たまったもんじゃないだろうけどさ、できる人からしたら、できた結果として、初めてコレじゃないって気がついたりするもんじゃない。本人も、全く盛り上がらない自分が自分で面白かったらしいし。まぁ実際はいろいろ思うところがあったと思うけどね。
残念ながら、他人よりできることと、やりたいことってのは、たいてい噛み合わない。
こういう話をすると、時間の無駄だったとか、失敗だったみたいに感じる人もいるみたいだけど、時間や努力、金を代償とするならば、代償を払って何も手に入れなかったわけないじゃん。それが、思っていたようなものじゃなくてもね。
小学校5年生のときにミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(1030g)という小説を読んだんだ。
その本に、こんな一節があった。
グラオーグラマーンの顔が急に、はっとするほど真剣になり、目がらんらんと燃えはじめた。
「ちがいます。」
あの、深い、遠雷のような声がいった。
「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意思を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」
「ぼくの意思だって?」
バスチアンは心にとまったそのことばをくりかえした。
「それは、いったい何なんだ?」
「それは、あなたさまがご存じないあなたさまご自身の深い秘密です。」
「どうしたら、それがぼくにわかるだろう?」
「いくつもの望みの道をたどってゆかれることです。一つ一つ、最後まで。それがあなたさまご自身の真に欲すること、真の意思へと導いてくれるでしょう。」
小学生の頃は、この一節の意味が全くわからなかったんだけど、あれから20年経って、最近ようやく少しだけ意味がわかるようになってきたんだ。
ぼーっと日々を過ごしてても、気になるものってのは必ずある。なんとなく心に残るもの、カッコいいなと思ったもの、キレイだなと感じるもの。そして、なんとなく始めたのに、気がついたらずっと続けているものもあるよね。自覚がないこともあるし、本人としては趣味とは感じなかったり、結果として感じたくなかったりすることもある。やめちゃうことのほうが実際は多いよ。
そういうものたちには、何かがある。「意味」とか「理由」という言葉で片付けたくはない、何かだよ。自分自身の、何か水源のようなもの、山頂のようなもの、ルーツのようなものに近づけるような気がする何か。他人から見たら、そういうものは趣味に見える。
だから、人が何かに熱中しているように見えても、本人にそれが趣味かと問うのは結構センシティブな問題だったりすると思うんだ。ずっと続けているものなんてのは、ほぼ間違いなく、楽しい、気持ちいい、みたいなポジティブな感情やストーリーに包まれてはいないから。
趣味がないという悩みがあるらしい
「趣味」っていう漠然としたキーワードでGoogle検索かけてみたんだけど、驚いたよね。
「趣味がない人必見」とか、「人気の趣味おすすめ一覧」、「趣味総合ランキング」なんてページが出てくるんだよ。
これ、日本だけの状況なのかと思って、試しにGoogle英語版でも“hobby”で検索してみたら、The New York TimesのHow to Find a Hobby(訳:趣味の見つけ方)ってページが真っ先に出てきた。書いてある内容は日本語サイトと大差ないんだよ。つまり、趣味を見つけることの意義と方法、おすすめの趣味が紹介されてるんだよね。
そうか、趣味を見つける、というレベルから需要があるんだって気づいたんだ。趣味の重さとかそれ以前の問題じゃんって。
こういうページをしばらく読んでて気がついたんだけど、なんか怪しい宗教勧誘とか、求人広告みたいなんだよね。
これやると気持ちよくなれるとか、痩せるとか、やりがいがあるとか。手を出しちゃいけないヤツじゃん。
というか、趣味がなくて悩んでいる、という状態こそ趣味をやっている感覚に近いと思うけど。なんかないかなぁ、なんかないかなぁ。コレいいかも!運命の出会いだ!あれ、やっぱり続かないや。みたいなさ。
例えば、ギターが好きと言って弾いてる人間が、常に気持ちよくギター弾いてるはずないよね。弾けねぇなぁ。指痛くなってきたわ。あ、今の音やばい。最高じゃん。あれ、再現できねぇ。みたいな感じでしょう。
わからないからやってるんだよ。
わからないからインターネットで「趣味」って入力して、祈るような気持ちで何か出てこないか期待するわけでしょう。それだよそれ。趣味やってる感覚はそのまんまそれですよ。インターネットができたからこそ、「趣味がない」って趣味ができたと言っていいと思うよ。なにか始めてもその感覚はずっと続くし、たいていもっとひどいことになる。
趣味があると自称している人間は、趣味が無いと悩んでいること以外で悩んでるだけと思って問題ない。
趣味がなくて悩んでいる人は、趣味があるって言ってる人の自慢話をお悩み相談と思って聞いてあげてるようなもんだから、その会話はもはや需要と供給の不思議な永久機関だよね。
問うべきは趣味は何かではない
そもそも趣味は「カメラ」とか「ギター」なんていう名詞ではないと思うんだ。趣味って、名詞じゃなくて、時間という概念に近いんだよ。
これ、将来の夢を訊かれた時に「職業」で答えようとしちゃうのと同じ心理で、教育の結果だと思うんだけど。方や「ギター」とか「キャンプ」なんていう特定の趣味がないって悩んでるのに、将来の夢って訊かれた途端、「警察官」とか「看護師」って答えるの、歪んでるよね。「ギター」とか「キャンプ」どこ行ったのさ。
逆に、将来の夢と訊かれて「職業」で答えちゃうような環境にいたら、趣味を訊かれたときに特定の名詞で答えたくなるような人間になっていくのかもしれない。興味深い。
例えば料理が趣味ってすごく違和感を感じるんだ。「料理」って答えた人は、ものすごくいろんな文脈を端折って、訊いてきた相手に気を使って「料理」って答えてると思う。自覚ないかもしれないけど。
私は仕事として料理をしてたことがあるんだけど、今は自分と家族のために料理をしないといけないし、やりたくないときだってある。やりたくないのにやってることって、趣味なのかな?ものすごく疑問だよね。
でも、本質的には料理をすることは大好きで、だからこそ料理が仕事にまでなっちゃった時期もあって、今も身体が重くても惰性で料理できちゃうんだよ。で、余裕があるときに料理の本やWebサイトで何時間も調べて、自分なりに家族に美味しい料理を作る方法を調べて、考え続けてる。
その時間はとっても楽しくて、幸せなんだ。お気に入りの包丁で玉ねぎ刻んで、お気に入りの鍋で何時間も炒め続けてる時間は最早、快感に近いよね。
そういう時間が趣味なんだよ。
もっと言うと、「好きなコに自分のギター貸して、後からその弦を」
年を重ねると、興味のわかないものが少しずつ減っていくんだ。
嫌でも好きなものと何かしらの関係を見つけてしまい、興味がわいてくる。知りたくなる。手を出してみると、やっぱりわからないことが出てくる。一生続けても、はてがないことだけは確かなんだ。
答えを求めて、この文章を読んでくれた人には少し申し訳ないけど、答えはないんだ。
私が答えられないんじゃなくて、答えなんてそもそも存在しない。答えのようなものなら、そこかしこに転がってるけどね。
趣味に沼があるのではなく、世界は見渡す限りずっと沼続きで、それが大変興味深いんだよ。
これは私の自慢話でもあり、絶対解決しない悩みの告白でもある。